学生時代から「経営者に近づくにはどうすればいいか」を考えながらキャリアを展開してきた遠藤氏。「苦労は買ってでもしろ」をモットーに、人事や財務、営業、IPOやM&Aまで、幅広い経験をされてきた遠藤氏に、IPO準備やM&Aの経験、今後のキャリアについてHUPRO編集部がお話を伺いました。
【略歴】
1992年 | ユニデンホールディングス株式会社 |
1996年 | 株式会社カーチスホールディングス |
2002年 | 株式会社ウィルグループ |
2019年 | ドゥ―マンズ株式会社入社 |
2022年 | Global Mobility Service株式会社(GMS)入社 |
【キャリアグラフ】
ー遠藤さんのキャリアはマイナスからのスタートになっていますが、どのような背景があったのでしょうか
父は私が12歳のとき交通事故で他界し、母は女手一つで私を含む3人の子供を育て、私を大学に入れてくれました。そんな母の後ろ姿を見て「真面目に生きよう、しっかりお給料をもらえる会社に入社しよう」と決めました。
ー大学では何を学んでいたのでしょうか
法律です。父と母はどちらも商売人でした。父は建築会社を経営し、母は飲食業を営んでいたのです。そして2人とも高校を出ていませんでした。
父親が他界したとき、経営がうまくいっていなかったことが分かりました。専門的な知識を身に付ける必要性を痛感し、法学部を選んだのです。数字に強くなるために、大学では通信教育で簿記の資格も取得しました。
ー最初の会社ではどのような仕事をしていたのでしょうか。簿記の資格を取得していたということで、やはり経理ですか?
はい。野球をやっていて少し元気があったこともあって社長に気に入られ「何でもかんでもやってこい、学んでこい」ということで、入社早々に子会社に出向しました。入社したのは通信機器メーカーでしたが出向先は化粧品事業で、全国の販社への出荷業務を一手に担っていました。小さな子会社でしたが、だからこそヒト・モノ・カネの流れを理解できたのがよかったです。
ーその後中国に駐在することになりましたが、なぜでしょうか。
子会社に出向した後、1年半で本社の人事総務部に配属になりました。そこでは給与計算、労務管理、海外駐在員の制度設計に携わっていました。その後財務経理部に異動し、次に「今度は海外を見て来い」ということで、中国への駐在を命じられたのです。チャイナ・プラスワン(中国以外の国にも工場などの投資を分散させる動き)の遥か前で、安い人件費を求めて進出した日系メーカーが多い時代だったんです。福建省にあった工場に約1年間駐在していました。
ー中国ではどのような仕事をしていたのでしょうか?
コードレス電話やサテライトレシーバーのサプライチェーンマネジメントの一角を担っていました。アメリカに大きな販売チャネルがあり、中国とアメリカの生産管理とサプライチェーンマネジメントの中継をしていたんです。その他にも総務的なことは何でもやりましたね。
私は学生時代から、おぼろげながらも「経営したい」という思いを持っていました。ですから経営者に近づくにはどうすればいいかというのを、意識して仕事していました。当時の経験は未だに自分の肥やしになっていますね。
現地の人は英語が喋れず、当然日本語もわかりません。ですから肌感覚で話すしかありません。それでも一緒に働いてもらわないとラインが回らない。いつも緊張して、ぐったりと疲れて寮に戻っていましたね。你好(ニーハオ)しか話せないレベルでアメリカとのサプライチェーンをやっていました。ベースは英語でしたね。
ー中国から戻ってきた後に転職していますが、ここでキャリアグラフがぐっと下がっていますね。なぜでしょうか。
経営者を目指すため、自分に足りないものは何か。それを考えたときに浮かんだのが「営業」でした。企業経営の裏方については一通り経験したものの、モノを売る経験が足りていないなと。中国に住んでいた頃は、日本のテレビ番組が放映されていなかったので、代わりに漫画本を沢山日本から持ってきて読んでいました。その中に『ナニワ金融道』があって、金融をやってみよう、その中でも厳しいところに行ってみようということで、貸金業に転職しました。
その会社は破綻しました。なぜなら、あまりにも無謀な金利でお金を貸す闇金のような会社が多すぎて、規制が強化されたからです。そして法律事務所が「過払い金は払わないといけない」と宣伝して、「新しい規則になったから金利の差額を返せ」という話になったんです。
ー大手車両販売店では、モチベーションが上がっていますね。ここでは具体的にどのような経験をしたのでしょうか?
もう一度、自分の強みを生かせる場所でチャレンジしようと転職しました。主なミッションは株式公開です。6年間在籍したのですが、今や著名な経営者となった方々と一緒に仕事ができたのがよかったですね。自分の視座の低さを痛感しました。財務経理や株式公開準備をしながら、経営者に近づくためにどういう視座でこの業務のタスクをこなすかという点で、多くの気づきを得られました。
ーそこでIPOを経験したのですね。
はい。1999年に株式公開し、店頭市場に上場しました。達成感を得られ、感動しましたね。その後はM&Aに関わっており、会社を買収後には、出向してPMIをしていました。これは文化が違う赤の他人が同じ屋根の下で働けるように、しっかりグループとしてまとまってバリューアップさせるための作業です。朝から晩まで、めちゃくちゃ働きましたね。この辺りのキャリアは、他の方々とは少し異なるかもしれません。
ーM&Aを15社も経験しているんですね。かなり濃い経験ですね。
日常業務とIPOとM&Aの3つをやってきました。楽しかったですね。
日常業務では80億くらいの会社、30億くらいの会社、15億くらいの会社、合計3社の単体決算を担当していました。伝票から月次決算にまとめて年次決算を作成し、申告書を書くところまで。最初は1人でやっていたんですが、IPOやM&Aの業務が入ってきたので振り分けて軽減しました。それでもめちゃくちゃキツかったですね。
かなり働きましたし、良い仕事仲間ができました。上司にもかわいがってもらい、さまざまなことを教わりました。
そんな経験を27、8歳でできたのは良かったですね。
M&Aでは人間関係が一番重要なので、円滑に進めるためにプロジェクト関係者とお酒もよく飲みに行きました。広告事業、ファイナンス事業、自動車の流通事業を立ち上げて、バックオフィスの責任者を務めるなど、経理だけでなく、人事や総務も含め、いろいろな経験をさせてもらいました。これらは全て、31歳までの出来事です。
ー大きな企業だったら何人もの人でやることを任せてもらっていたわけですね。
そうですね。ですから若い人には「苦労は買ってでもやれ」と言いたいです。どの職種にも共通することです。努力は自分の血肉になる、無駄なことは無いと思いますから。
ーそこからさらに転職されて。
はい。カーチスホールディングスを一定まで仕上げられたという自負があり、次のキャリアを考えていたところ、今は東証一部に上場しているウィルグループの社長に声をかけてもらって入社しました。出発点は経理部長で、同じく「株式公開するから手伝ってくれ」というオファーです。執行役として、一連の業務を経験させてもらいました。
ー株式公開は2度目ですが、1度目の経験が生きたなという場面はありましたか?
実務やプロセスが大分わかっていますから。ただ、それでも足掛け11年かかりましたね。人材派遣業だったのですが、労働者派遣法の改正・規制強化など厳しい環境の中、3回目でようやく合格して、東証二部に出られ、初めて東京証券取引所の鐘を鳴らせたんです。すごく感動しましたね。
この会社でも良い仲間ができて、未だに付き合いがあります。「僕たちは社会に対してしっかり価値を届けるんだ」という意志を持つ同世代が集まり、生意気ながら35歳で取締役にさせてもらい、経営と上場を経験できました。
ー35歳のときには、目標にしていた経営に関わるポジションにたどり着けたわけですね。
そうですね。あと上場前は子会社の社長を2年やっていました。上場してからはM&Aやアライアンスのマネージを5人くらいのメンバーでやりました。
ーウィルグループでの仕事で苦労した部分はありますか?
経営者として何十人もの人を預かっていました。自分自身がいろいろなことをやってきただけに、当時「何でも自分でできる」という自負がありました。そして仕事ができない人に腹が立って仕方なかったんです。総スカンとまではいかなかったんですが、若手の中で私に対する不満が増えていました。それが本当に自分が求める姿だったのか、経営者として部下の良いところを最大限引き出すのが、本質的なマネジメントではないかということに気づき、大いに反省しました。
ーこの危機を乗り越えるにあたって、どのようなことをしましたか?
まずはみんなの前で、「ごめんなさい」と謝りました。それから今で言う1on1面談をしました。そして「次はこうしていこう」という話をみんなとしました。当時のメンバーから幹部に育ってくれた人もいるので、良かったなと思っています。それまでは個のパフォーマンスが自分の価値でしたが、それを30人、50人、100人の価値の塊にしていかなければいけないのが組織づくりです。不十分な部分もあったと思いますが、良い経験をさせてもらいました。
ーウィルグループから転職した理由はなんですか?
「後進が育ってきたな」と感じたからです。ジュニアボードメンバーというものをずっと育成していて、彼らがもう経営できているので、「45歳を過ぎたら引退しよう」という話をしていました。そして私を含む古参の役員数名が外に出たんです。
次は某ファニチャーベンチャーに行きました。ウィルグループの株主となったベンチャーキャピタリストと懇意にさせてもらっていましたが、その人が独立して別のベンチャーキャピタルを作ったんです。その人の投資先が同社で、エグジットさせてほしいということで行かせてもらいました。そこから1年で、IPOではなくM&Aでエグジットできたので、卒業しました。
その次は社会課題解決系の会社に入社しました。ただ自分が任されているという感覚を得るのが難しく、そこには2年弱在籍し、その後縁あってGMS(Grobal Mobility Service株式会社 )に転職したんです。
ーGMSにジョインした理由を教えていただけますか。
GMSの『「真面目に働く人が正しく評価される仕組み」を創造する』というビジョンに惹かれたからです。GMSは社会課題の解決、車、金融と僕の好きな要素が揃っています。やはり50代になると死を意識するようになって「どうやって後世に伝えていくか、残していくか」を考えるわけです。そこにぴったりとハマる事業をやっていたのがGMSだったのです。さらにGMSは日本国内だけでなく東南アジアにも進出していて、更に今後はアフリカ、インドなどにもビジネスを拡大していくことになるでしょう。自分のキャリアの最後の仕上げとして「GMSを『しっかり世の中に価値を提供する会社だ』という認識をしていただけるように頑張りたい」と考えて入社しました。
今は昔のように身体が動かないこともありますが、公認会計士など多彩なキャリアを持つ若い人たちと一緒に働いていて楽しいですね。息子や娘のような目で見ることもあります。
ー今後、どのような仲間と一緒に働きたいと思っていますか?
GMSという会社を世に出すことも含め、私が「苦労は買ってでもしろ」という場と機会を提供しますので、それに果敢に挑戦する人、諦めない人ですね。その根底の部分を大事にしていきたいし、そういう仲間を集めたいと思っています。
人材ビジネスをやっていて感じたのですが、残念ながら安定志向の人、安全を気にする人はけっこういます。年齢の若い方にはぜひ困難に果敢にチャレンジしてほしい。そうすることでアントレプレナーシップ(起業家精神を持って行動出来る人)が育つし、日本経済の発展にも良い結果をもたらすと思うんです。
ー遠藤さんやGMSは、5年後、10年後の未来について、どうありたいと考えていますか?
私個人でいえば、40代後半の頃から5年後、10年後に向けて「後進を育て、つなげていく」ということを意識しています。具体的には事業を理解しているCFOを財務部門に何人育成できるかということに挑戦していきたいです。
GMSについては、日本国内だけではなく、世界に知られているESG環境(E: Environment)、社会(S: Social)、ガバナンス(G: Governance)企業、SDGs企業にしていきたい。自分がそのための一翼を担いたいと考えています。
あとはCSV(Creating Shared Value)経営を取り入れたいと考えています。
「社会的価値」を創造したいと考える企業は多くあります。しかし、事業と再投資のサイクルを回して「経済的価値」と両立させないと、NGO・NPOになってしまうんです。なので経済的価値をしっかり獲得していきたいですね。
ー慈善事業ではないということですね。
貧困問題を解決するには、お金や働く機会を提供する必要があります。そのためには、まずは自分たちが適正な利益を得なければならない。そうしなければ再分配・再投資できないですからね。そこは間違えないようにしないと慈善事業になってしまいますね。
ー最後にCFOのキャリアを構築したいと考える読者にむけて、何かメッセージはありますか?
アントレプレナーシップって、言い換えたらどれだけ「当事者意識」を持てるかなんですよね。特にベンチャー企業では、1人で3役、4役こなすことも珍しくありません。「会社の業績を上げるために、どうすればよいか」を当事者として考える。そして一人で抱え込まずにチームで動く。
CFOの価値は「いくら調達してきたか」だけでは測れません。事業を回すなかで、いかに価値を創造し、提供できるか。財務のプロフェッショナルとしての引き出しがどれだけあるか。それが事業全体の価値の創造につながります。ですから仕事における苦労は買ってでもした方がいい。良質な経験を積むことで、初めて良いCFOになるのではないでしょうか。
ー本日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
本日お話を伺った遠藤様が執行役員 管理本部長を務めるGlobal Mobility Service株式会社のホームページはこちら