日本古来のエンタテインメントを表す言葉「風流(ふりゅう)」を語源に、プリントシール事業、コンテンツ・メディア事業、キャラクター・マーチャンダイジング事業、ゲーム事業などで事業を積み上げてきたフリュー株式会社。今回は銀行からの出向を経て同社で取締役及び管理本部長として活躍する笹沼理成氏に、そのキャリアや仕事に対する考え方などについてお話を伺いました。
【経歴】
1988年~1996年 | 大学卒業 ㈱富士銀行 入行 都内支店から現場3ヶ店で法人営業経験章 |
1996年~1999年 | 本部で特定企業の再建プロジェクト (銀行最大の不始末(不良債権)の後始末) |
1999年~2007年 | 再び現場でマネジメント経験(課長~副支店長) |
2007年~2013年 | 本部コンプライアンス部門 (銀行最大の不適切商品販売の後始末) |
2013年 | 横浜市内の支店長 |
2016年~2018年 | フリュー㈱ 財務経理部長~兼リスク管理部長 |
2018年~ | 同社 取締役 管理本部長 |
【キャリアグラフ】
―キャリアのスタートに銀行を選ばれた理由について教えていただけますか?
うちは父が税理士で、私も大学では商学部の会計ゼミにいました。
ですから就職を考えた時に父の地盤を継いで税理士をやるのが一番楽なんだろうなと当時考えていました。
しかし、資格の勉強か就職かと考えていた時に、父から「資格の勉強はあとでいくらでもできる」「資格だけ取っても全然使えないから、まずは組織に入って揉まれろ」と言われてしまいました。
当時はバブル時代。世の中の景気がものすごい勢いで上がっている頃で、日本の銀行のプレゼンスって本当に凄かったんですよ。
日本の都市銀行が当時13行ある中で、世界の時価総額ランキング上位10行のうち7つぐらいが日本の銀行が占める、そんな時代でした。
そのような状況で、会計の知識をどのように一番活かせるかと考えた時にやはり銀行でキャリアをスタートさせようと考えました。様々な経済イベントの裏側に必ず銀行がある。そんな立ち位置にまず惹かれたのと、そういった経済のど真ん中で自分もなにか役に立ちたいという思いで銀行を選びました。
―銀行に入られて、まずは都内の支店からスタートされましたね。
東京の四谷支店に配属されたのですが、そこの支店長が富士銀行(現在のみずほ銀行)で一番有名な厳しい支店長でした(笑)。
普通の支店ではOJTをしていたのですが、私の入ったところだけはそういうものが一切なく、入行式の翌日には外に出てとにかく何か案件を取ってこいと言われて…(笑)
一年半、その支店長のもとで励んでいたのですが、まあしんどかったですね。時代の価値観によるところもあったとは思います。
支店内で業務の勉強はさせてくれないし、夜はもう10時くらいまで仕事をして、それから飲みに連れていかれて、0時過ぎに家に帰って、それから日報を書いて、翌日朝一でそれを出してという日々が続き、一年で10キロぐらい痩せました。
「こんなはずじゃなかった…もう辞めてやる」と何度も考えましたが、みんな必死になって食らいついていたので、ここで辞めたらちょっとカッコ悪いな、と思い留まりました。
なんとか耐えているうちに3年ぐらい経って私が転勤になり、そこでようやく銀行らしい仕事をさせてもらえるようになりました。
法人のお客様から悩みを聞いて融資をして、「大変助かりました」と言ってもらえて、初めて「銀行の仕事ってやっぱり面白いんだな」「辞めないでよかったな」と感じることができました。
―その後、本部に異動していますね
入社してから、約7年が経過し、自分のスキルを上げるためにも本部に行って専門的な仕事をしたいと思っていた頃でした。
営業成績も上がってそれなりに自信をつけて本部に赴任したのですが、そこはある会社の再建プロジェクトチームで、自分の知識の無さに愕然としました。
当時30歳を過ぎていましたが、私が一番末席でした。
周りの人間は弁は立つし、知識は豊富だし、法律・会計・税務・交渉術、それから人を説き伏せる術、すべて自分にはないものを持っていました。
会社を再建しないといけないので、相当な荒治療をするわけですね。
具体的に言うと、会社を再建させるために、銀行が通常受け入れ難い、債権放棄を実行していただく仕事をしていました。準備から交渉までを担い、喧々諤々ずっと議論していました。
毎日夜遅くまで働き、休日もほとんど休むことなく働いていましたので、体力的にしんどいことはもちろん自分の未熟さも痛感しました。
ただ、ここでも必死に食らいついてやっていたので、結果的にここでの経験が自信につながったとは思っています。
―その後2007年まで再び現場でマネジメントを経験されたのですね?
課長・次長・副支店長とステップアップしつつも、日本経済が不良債権に苦しんでいた時代だったので、やることといったら不良債権と格闘するみたいなキツい仕事が続いていました。ただマネジメントというものを経験するようになり、とても楽しく充実した時間だったのかなとも思います。
この頃は正直怖い思いもいっぱいしました。不良債権って得てして色々な事情がついてまわるものでして…。東京地検特捜部に呼びつけられたこともありますし、電話口で債権者から脅迫をされたこともあります。話題には事欠かない日々でしたね。
―この頃に「背中を見せるだけじゃダメだ」と悟られたきっかけは何だったのでしょうか?
2000年ちょっと前ぐらいから、金融自由化の流れの中で銀行が個人向けのビジネスを始めるようになりました。
投資信託や保険など、だんだん売る商品のバリエーションが広がってきて、いわゆる個人向け営業みたいなものが各現場にもできました。
私は副支店長として仙台に行っていたのですが、自分のチームに法人の営業課があり、さらにもうひとつ個人の営業課もみることに。しかし、個人向けの商品に関してはあまり経験がなかったので、営業課長に丸投げの状態でした。
そんな折に担当者の日報をいつものようにチェックしていたところ、私がコメントしたところだけ日誌が破かれてなくなっている…。正直驚きました。誰が?と思い確認したところ、個人営業課で一番稼ぎ頭の方だと分かりました。
実はその少し前に、その方の目標の数字、いわゆるノルマを私が高く設定させていまして。
「副支店長は私の目標を上げるだけ上げて、法人の方は一生懸命やっているけれど私たち個人営業課の悩みに全然耳を傾けてくれないじゃないですか」と泣きながら言われました。
それはいけなかったなと思い、素直に謝り、これからは自分もちゃんと勉強して一緒にセールスできるようにする、作戦会議も一緒にしよう!と言って和解しました。
その時に初めて部下の声に耳を傾けて、話し合い、行動することの重要性を理解しました。
ちゃんとメンバーと同じ立場に立って、自分の弱みをさらけ出しながらできることを一緒に考えて、そして先頭に立って引っ張っていくことがまず必要なんだと痛感しました。
―2007年に本部のコンプライアンス部門へまた異動されますが、これは望んだものではなかったんでしょうか?
銀行の中では支店長になれるポジションにいたので、どこかの支店長を経験したいと考えていました。
しかし結果として異動先はコンプライアンス部門で、興味が薄い場所に飛ばされたという印象でしたが、銀行としてコンプライアンス体制をしっかりしなければということで、付随する制度を導入するミッションを与えられました。
当時は世の中全体にコンプライアンス重視の風潮が強まり始めたころで、銀行はお客様に優越的な地位を使って不適切なものを売ったりしていないか、反社会的勢力と繋がっていないかなど、すごく厳しく言われ始めた時期でした。
ですので、そういったことを金融庁とも確認を取りながら進めていく中で、世の中的にすごく大事なことなんだなと仕事しながら使命感をもって実感したのを覚えています。
―それがこの潮目を知るというところですね?
そうですね。ここが一番長くて約6年在籍しました。
途中から紛争解決処理というものをやっていました。
金融ADRと言うのですが、調停のようなな感じで第三者を入れて和解を図ります。
そこの室長として300件ぐらい紛争処理をして、それが片付いて次はようやく支店長になることができました。
―2013年、横浜市内の支店長になられて、キャリアグラフでもこの時がとても高くなっていますね?
この時47、8歳ぐらいで銀行員人生としては終盤に差し掛かるような年齢になってきたなと思っていたので、やはり支店長を経験してみたいと考えていました。
支店長というのは、現場では絶対的な権限を持っている、いわゆる一国一城の主のような存在で。その立場で仕事をしたいという思いがありました。
私が支店長として行った支店は、みな優しく素直な人間ばかりでしたが、あまり積極性を感じず、「温い」空気感がありました。そこで、試行錯誤して小さな改善運動みたいなことを始めました。
銀行っていろいろなルールが雁字搦めになっている世界ではありますが、ルールの隙間隙間に改善できる部分、自分たちで工夫できる部分って絶対あるんです。
そういうところを自分たちで考えてやってみようということで、4、5人ぐらいにグループを分けて、日々起きる問題や気づきを話し合う機会を作り、改善していく取り組みを始めました。
プロ野球のイチロー選手がかつて出演していたあるコマーシャルで当時の流行語にもなった「変わらなきゃ」というフレーズがあったのですが、それを参考に我々も「変わらなきゃ」ということで、「変わらなきゃ運動」と呼んでいました。
最初はこんなことをやって意味があるの?みたいな不信感を帯びた空気もあったのですが、取り組みを継続していく中で、一人一人が問題意識を持つように変わっていきました。
上から言われたことをやるだけになっていると仕事は楽しくないし、自分も成長しない。
だからこそ、問題意識を持つことによって一人ひとりが主体的になり、仕事も自分が変えていけると思えば楽しくなる。
そこに気づいてほしいなと思って始めたものが、結果的にいい流れを作り、銀行全体での社内報のようなもので取り上げられたり、社内の表彰制度において事務部門で受賞するまでの成果となりました。
―しっかり結果につながっていったということですね?
そうですね。大変なこともたくさんありましたが、支店の活性化のために自身も懸命に動き、それにメンバーも共感して行動してくれて、今振り返ってみればとても充実していた時期でした。
―そして2016年、現在のフリュー株式会社に転職したということになるのでしょうか?
銀行という世界はドラマ『半沢直樹』でもありましたが、だいたい支店長ぐらいのポジションになると、定年までの間に次のポジションはもう役員くらいしかないので、役員にならない人はどんどん関連会社や銀行OBを求めるお取引先に出向になっていきます。
私の場合は3年間支店長をやって、2016年の4月1日に人事から「次は出向になります」と言われました。その後、「あなたの行く候補先はフリューです」と銀行の人事から現在の会社を紹介されました。
フリューのプロファイルを見せてもらって、率直に面白そうだなと思いました。
創業事業であり柱となっているのはプリントシール機と関連サービスで、その他にもクレーンゲームの景品などエンタテインメント分野で事業を拡大してきていました。ものすごく大きな会社だったら組織が凝り固まっていてつまらないと思ったのですが、まだこの時期のフリューは東証一部へ上場して早々の頃でした。
こういう新しい会社の方が伸びしろがあるし、いろいろ裁量が効くかもしれないので、楽しいんじゃないかなと思いました。
あとは銀行員なので当然財務内容を見るわけですが、無借金で利益額も多く、安定した素晴らしい会社だと感じました。
それで興味をひかれて「お受けします」とここに来ました。
―しかし出向されてすぐ価値観のギャップに困惑されることになるんですね?
そうですね、やはり銀行のカルチャーとあまりにも違いました(笑)
私は銀行員の中では比較的柔軟な方かなと自分では思っていたのですが、それでもやっぱり「べき論」みたいに凝り固まっているものがあったんですよ。
上場したばかりだったので、経営管理の体制など色々な面において、私から見ればまだまだ整備が行き届いてはいませんでした。
逆に言うとそれをやっていかなきゃいけないからこそ自分が来たんだ!と今では思っていますが、その時は整っていないことや、悪いことばかりが目についてしまって。周りの人たちとの認識のギャップ、価値観の違いみたいなものに悩みました。
少しすると、私が価値観のギャップにひとりで悶々としていた頃に、ある方が上司として入社され、彼も同じことを考え共感してくれました。結果、一緒に取り組む中で徐々にその悩みを解消していくことができました。
―仕事をしていく上で心に留めている言葉や思いはありますか?
今まで述べたように、私はなにかカッコイイことにチャレンジしたりとかそういうものがありません。
キャリアドリフトという言い方をよくしますけれど、来る運命を受け入れてそれに立ち向かって懸命に生きているだけです。
そういう中から生まれた自分の座右の銘が、『随処に主と作れば立処皆真なり(ずいしょにしゅとなればりっしょみなしんなり)』という言葉です。
どんな場所でも主体的にやっていればその場所が皆あなたの晴れ舞台になるし、それが真実になるんだよ、というような意味です。
禅の言葉らしいですが、この言葉を10年以上座右の銘としています。
フリューに来てギャップに落ち込んだりしたこともありますが、やはり「今できることをしっかりやり、自分が必要とされているところで何ができるんだろうと考えて、真摯に立ち向かってきた」―その結果が今であるだけで、なにか自分は絶対こうなる!みたいなもので作ってきたキャリアでは全然ありません。
―キャリアアップについて、ご自身の経験から伝えられることはありますか?
やはりさきほどお話した『随処に主と作れば立処皆真なり』ですね。
自分のキャリアの8割は偶然の出来事によって決定されるという『計画された偶発性理論』※というものがありますが、まさに自分はそれです。
結局、なにかひとつのものを目指して進むのもすごく尊いですが、ほとんどの人はそうはならないと思います。
ですので偶然降ってきたこと、偶然出逢ったことにいかに真面目に向き合って自分のものにしていくか。それがすべてなのではないかなと思います。
私自身のキャリアが本当に偶然の出逢いの中で形成されてきたので、非常に重要な考え方であったと思います。
※計画された偶発性理論(英語: Planned Happenstance Theory)とは、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授らが提案したキャリア論に関する考え方。
―今後の目標やビジョンについて伺えますか?
フリューはこの度、東証再編の中で東証1部からプライム市場に変更になりました。事業の成長が大前提となりますが、やはりガバナンスやコンプライアンス、サステナビリティ等に関する対応だとかも含めて相当高い基準が求められます。
管理部門がそこの旗を振っていかなければいけないので、プライム市場の上場企業にふさわしい管理体制を実現し、社員が活き活きとやりがいをもって働いて幸せになれる会社でありたいと思っています。
個人については壮大な野望とか大志は抱いてませんが、『マイ・インターン』という映画でロバート・デ・ニーロが演じていたようななおじいさんになれればいいなと思っています(笑)。
―最後に転職活動をしている管理部門の方にメッセージをお願いします
管理部門というのは経営に一番近いところにいて、経営をサポートする部隊でもあります。専門性も大事ですが、経営をサポートするためには、財務・経理・人事・総務どの職種においても、幅広くゼネラリスト的な視野を持つことも大事かと思います。
自分の得意な分野での専門性は突き詰めつつ、より広い視野を持つために、偶然の出逢いをポジティブに捉え取り組んでほしいです。
そして、やはり管理部門は「いかにして企業の長期的な価値を上げていくのか」を担う、とてもやりがいと魅力のある仕事だと思ってます!
皆さんのこれからのキャリア形成に、私がお話した考えや価値観が参考になれば幸いです。
―本日はお話を聞かせていただきありがとうございました。
今回お話を伺った笹沼理成氏が取締役・管理本部長を務めるフリュー株式会社のホームページはこちら