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IPOはスタートライン。これからは上場会社として次の挑戦に導きたい。 "証券アナリスト出身"のワンダープラネット株式会社 取締役CFO 佐藤彰紀氏のキャリアとは

HUPRO 編集部
IPOはスタートライン。これからは上場会社として次の挑戦に導きたい。  "証券アナリスト出身"のワンダープラネット株式会社 取締役CFO 佐藤彰紀氏のキャリアとは

飛び級で進学した大学院を卒業後、証券アナリストの実務経験を積んだ後に、地元名古屋でワンダープラネットの取締役CFOに就任した佐藤彰紀氏。その佐藤氏に、今までのキャリアアップの背景や苦労、今後の展望などをHUPRO編集部がお話を伺いました。

【略歴】

2008年 神戸大学大学院修士課程修了(飛び級進学)
2008年 株式会社大和総研 入社
2009年 大和証券SMBC株式会社(現大和証券株式会社) 転籍
2011年 日本証券アナリスト協会 検定会員
2012年 株式会社大和証券グループ本社 異動
2013年 大和証券株式会社 異動
2016年 ワンダープラネット株式会社 取締役CFO就任(現任)
2021年 ワンダープラネット株式会社 東証マザーズ上場

【キャリアグラフ】

“飛び級進学”での大学院卒業後、証券アナリストへ

―そもそも佐藤さんが現在までのキャリアを歩むに至った“きっかけ”は何ですか?

よろしくお願いします。特に同じ金融出身の方が多いですが、キャリアを聞かれたり、相談に乗ることが多いので、読んで頂いた方にはキャリアへの考えとしてひとつの参考になれば幸いです。

まず、人生観は祖父の影響を強く受けています。祖父は愛知県名古屋市で建設機械商社を興し、約50年にわたり人生の大半を経営に捧げました。特に祖父がずっと説き続けたのが“経営におけるお金の大切さ”、「お金さえあれば何度でもチャレンジできる」。さらに、“人の縁やつながり”、「受けた恩はいつか必ず返しなさい」ということでした。

また、何かを極めるにしても、将来名古屋に戻ってくるにしても、「まずは様々な会社のお金の動きを見て、視野を拡げてから色々な可能性を考えるのもいい」と祖父から薦められたことも、社会人のスタートに「証券アナリスト」を選択することにつながっていきます。

―進路を選ぶにあたっても祖父の影響を受けたということですが、学校ではどのようなことを学んだんでしょうか?

大学からは地元名古屋を離れて関西に移り、お金を基礎から学ぶという意味で「金融」を中心に専攻しました。並行して、就職活動を逆算して考えていた時、まず金融のキャリアから入るにしても専門領域を持てる仕事を選ぶべきだと直感的に強く感じていました。

しかし、新卒で専門家を育成する前提の採用は、募集枠がない、あっても少人数で、就職活動のハードルが非常に高い。そのため、ポテンシャルを感じてもらえる分かりやすい実績を残しておかないといけない。その危機感からの選択が「飛び級での大学院進学」でした。

―飛び級だったんですね。

はい。もともとは大学4年生の1年間を完全に自分の自由な時間に充てたいと考えており、最短の2年半で卒業要件を満たしました。その頃、たまたま聞いた他大学の飛び級経験者がその後素晴らしいキャリアを歩んでいるという噂が妙にずっと引っかかっていて、気になって仕方ないので、大学院の入試ルールを調べてみました。

すると、大学3年生時に事前審査で卒業要件充足と成績基準クリアを確認できれば、特例で受験できるということを知りました。普通は気付かないですし、チャレンジ自体に相当ハードルが高い設計だったので、これは何かの縁かと感じて受験を決めました。最終面接で「当校で初事例になる、覚悟はあるか」と問われ、初めてその場で初挑戦者と知りましたが、自然と「チャレンジさせてください」と回答していました。

―“飛び級進学”という選択は今振り返っても“正しい選択”だったと思いますか?

正しかったと思います。枠組みに囚われない戦い方を経験できたこと、それまで枠の中で必死に良い結果を出そうとしていた考えが如何に視野が狭かったか、ということに気づく経験でした。その後、何名か飛び級経験者と出会いましたが、誰からも良い意味で枠に収まらない個性を感じました。

激震が走ったリーマンショック、“サバイバル”スタート

―そうした経験を経て、最初の就職先ではどのような業務を担ったのでしょうか?就職後に苦労したエピソードはありますか?

縁があって、2008年4月に株式会社大和総研の調査本部採用として入社して東京に移りました。当時、証券アナリストも同様でしたが、非常に人気の高かった投資銀行入社組と研修が同じだったこともあり、幅広い層の非常に熱量の高い新卒同期達と良い緊張感の中で切磋琢磨することができました。その後、新卒同期含めて元同僚の方々が会社を離れても現在諸方面でご活躍されているので、人との出会いに恵まれた環境だったと思います。

しかし、状況が一変したのが2008年9月の「リーマンショック」です。明らかに社内の雰囲気が変わりました。その後から社内で転職挨拶の数が増えて、周りから人が減っていきました。先々のリストラをリスクヘッジするため、それぞれ迅速に仕事の確保に動いたんだと思います。

-佐藤さんとしてもリストラに怯える日々だったのでしょうか?

恐怖しかありませんでした。自分はまだ研修中で全く実績の無い身。このまま放り出されたら出だしからキャリアが詰むと感じていました。自分を守るためには一刻も早く証券アナリストとしてデビューし、実績を積んでいくしかないと悲壮感のような危機感で仕事をしていました。

-休みがなかったんじゃないですか?

土日休みではありましたが、四六時中、寝ていても仕事の事を考えていましたし、土日に稼働することもありました。時が経つごとに周りから人が減っていくので、本当の意味で“生き残りをかけた闘い”になっていました。

-“生き残りをかけた闘い”に勝ち残るために、佐藤さんは何をしたんでしょうか?

配属先は「企業調査部」、いわゆる証券会社のセルサイドアナリストですが、周りの方のサポートに恵まれ、2年目後半の早いタイミングで専門店小売の上場会社をカバレッジすることでデビューしました。その後も必死さは変わらず、周りの方のサポートに感謝しかないのですが、Eコマースやネットメディア等にカバレッジを拡げ、4年目には10社以上にレーティングを付与、毎四半期に数十社の取材とレポートを書くまでになりました。

-キャリアを歩み始めて間もなく「リーマンショック」という“大きな壁”にぶちあたった経験が人生観に影響を与えたんでしょうか?

リーマンショックの経験で、社会の理不尽さや残酷さを学びました。自分の身は自分で守るしかないと。今、自分が望む仕事が出来ているのであれば、それがどれだけ幸せなことなのかよく分かります。当時は自らが望んでも一方的に仕事が奪われてしまう時代でしたので。

-証券アナリストとしてのキャリアが始まった後の話を聞かせてください。

4年目の2011年頃はリーマンショック以降の不況が続き、社内だけでなく業界から人が随分減っていました。私にはヘッドハンティングがよく来るようになっており、その一つに元同僚からのリファラルで外資系投資銀行でセルサイドアナリストのオファーがありました。この話に乗るべきか、いや自分の道はそれで良いのかと踏み切れず悩んでいました。

-結果、大和証券に残られたのは何がきっかけだったのでしょうか?

当時の部長からサシで飲みに行こうと誘われ、狭い業界なのでオファーを知られたかと思いながら行きましたが、「プロパー(新卒入社の生え抜き社員)にはプロパーにしか出来ない仕事がある、お前は中枢にいくべき人間だ、代表して行ってこい」と真顔で言われ、最初はどう反応して良いか困りました。しかし、その後なぜ転職に踏み切らなかったか、恩を返さないまま仇だけ返すような形で、競合に行って同じ仕事をしたい訳ではないと気付きました。

事業会社の立場を経験し、そしてベンチャーの世界へ

―大企業の経営企画部門の経験はどうでしたか?

苦しい状況での事業会社の動き方、結果が全てでクロージング最優先を経験できたことは、現職にも活きています。グループ本社の経営企画部に居た2012-13年は不況の終わりが見えず、苦しい業績が続いていました。私に言われたミッションは明確で、大枠はキャッシュフローの改善。独自に連結から各グループ会社まで業績分析モデルを作成して分析し、キャッシュ流出を止めるアクションを決め、周りの理解やサポートもあったので、自ら条件協議してクロージングすることもありました。また、コミュニケーションマネジメントに長けた方が多く、現在の私のロールモデルになる方とも出会うことが出来ました。

―その後、どのようにベンチャーの世界に入っていくのか教えてください。

2013年のアベノミクスのタイミングで、長く続いた不況が終わりました。その際、「これからベンチャーのIPOが活況な時代が来るから、投資銀行本部のアナリストとしてベンチャーのIPOを中心に」という動きがありました。結果として、在籍した2014-2015年、その後含めてIPOしていくベンチャーに、会社、私個人共に非常に多く携わったので、見通しは正しく入りのタイミングも良かったと思います。ベンチャーへの熱の高まりで、社内外で熱量の高い人達が集まり出す時だったので、今にも繋がる非常に良い出会いに数多く恵まれました。

―その際、どうやってワンダープラネットと繋がったのでしょうか?

最初はたまたま知りました。IPOを目指すベンチャーの支援となると、ほぼ仕事が東京に集中します。地元名古屋からもIPOを目指すベンチャーが出てきてほしいと願うも、機会に恵まれませんでした。そんな中、2014年に他社案件の調査の時に、偶然にもワンダープラネットに情報がつながったのです。当時は「地元名古屋のベンチャーなのか、頑張ってほしい」と思っていました。

その数ヶ月後だったと思います。ベンチャーの関係者が集まるイベントに行った際、たまたま私が名古屋出身ということを知っていた共通の知人が、偶然にも同じイベントに来ていた代表の常川に繋いでくれました。その際に「まだその時ではないですが、いつか一緒に出来る時がくれば」的な話をしたと記憶しています。

定量的には計算できない“ベンチャースピリット”

-現職のワンダープラネットでの話に移りたいと思いますが、まずはワンダープラネットがどういう事業を展開しているのか教えてください。

当社は名古屋を本社に創業し、エンターテインメントサービス事業としてスマートフォン向けゲームの企画・開発・運営を行っています。2021年6月に東証マザーズに上場しました。強みは、自社開発タイトルでヒットが続く名古屋スタジオ、海外展開を一気通貫する東京スタジオにあります。

代表タイトルの1つ「クラッシュフィーバー」は、2015年に日本版をリリースし、その後、台湾・香港を中心とする繁体字版、北米を中心とする英語版も展開しています。当社オリジナルタイトルで、海外含めてロングヒットを続けていることが特徴です。

もう1つの代表タイトルが、株式会社集英社とLINE株式会社と3社協業のタイトル「ジャンプチ ヒーローズ」です。「週刊少年ジャンプ」の創刊50周年記念にあたる2018年にリリースしました。現在、日本版と繁体字版を運営しています。

また今年の夏には、当社名古屋スタジオの開発力と東京スタジオのグローバル展開力を活かした、両スタジオ協働による世界同時配信タイトル「アリスフィクション」も新規リリース予定となっています。

-そもそも「ワンダープラネット」に転職した“きっかけ”は何だったのでしょうか?またワンダープラネットのどういったところに将来性を期待されて加わろうと思ったんでしょうか?

代表の常川からの連絡です。まずは投資銀行部門の立場で提案することが必要だったので、調査しました。当時はワンダープラネットに売上高が全然ない状況で営業CF見通しの目処が立たないので、定量的なアナリスト感覚では厳しいと率直に思いました。しかし、オフィスに行く度に会社の熱量がとにかく凄かったのを覚えています。ベンチャーが大きく成長してIPOからその先に駆け上がっていくのを、数多く見てきましたが、肌感覚で当時のワンダープラネットにも同じような雰囲気を感じました。

その時に、この会社は大きく成長できるかもしれないが勝算はない、しかしチャレンジ自体がその後の名古屋を変えるかもしれない。私も名古屋出身の人間としてこの時を一緒にしないとおそらく後悔する、地元貢献の大義にもなる。と覚悟を決め、2016年1月にワンダープラネット取締役CFOに就任し、高校卒業以来、約13年ぶりに地元名古屋に戻ってくることとなりました。

-名古屋に戻ると決断した時の周りの反応はどうでしたか?

社内外の方に退職に伴い御迷惑をお掛けしますと報告した際、「佐藤さんらしいですね、転職するなら事業会社に行くと思っていました、地元名古屋を選ぶの佐藤さんもらしい」と複数の方から言って頂いて、これまで仕事を通してキャリアの軸が伝わっていたのかと嬉しくなりました。

-取締役CFOとして、どのような業務を担当して経験してきましたか?

就任当時の組織はシンプルで、企画・開発・運営を行う事業部と、私以外に経理一名のみの「コーポレート部門」だけでした。そのため、穴が空くものは全て設計から運用、雑務まで何でもしていました。その後、チーム組成をゼロから始めて、メンバーの採用が進むにしたがって適宜役割分担を進めてきました。

その中で、最優先事項はキャッシュの維持と確保でした。会社はしばらく投資先行が続くことが分かっていたので、その間は財務CF側、毎年のように先んじてエクイティファイナンス中心に必要な資金を供給し続け、また並行して営業CFの不必要な止血もしつつ、会社を守ることと事業のチャレンジを後押しし続けました。

-上手くいったこと、上手くいかなかったことを教えてください。

何より全ては、名古屋からIPOするベンチャーを生み出せた結果に尽きます。私の目先のゴールは、IPOという結果から全て逆算して組まれていました。何故なら、地方でベンチャーがIPOを実現するということはそれだけハードルが高い挑戦だと認識していたからです。

情報を集めていくと、日本で上場準備している会社は数千社、一説には約5千社と言われ、その中にはベンチャーだけではなく、当然社歴の長い会社も多く含まれます。一方でIPOを実現する会社は、2021年は多くて約120社でしたが、年100社を超えることが稀で例年は毎年数十社、またその7割ほどが東京の会社です。つまり、“非東京の社歴10年以内のベンチャー”のIPO実現がいかに簡単でないか、そのボトルネックは準備プロセスの諸々に渡りますが、世の中の実績から理解いただけると思います。

そのため、IPOできた結果が私にとって全てで、例えばキャッシュフローのやりくりに苦労して上場前に30億円以上の資金調達を積み重ねたり、上場審査の過程で苦労したことなどは山ほどありましたが、IPOできた結果というのは他の苦労事と比べることのできない大きな出来事でした。

-2021年6月に東証マザーズ上場を果たした時、喜びもひとしおだったのではないですか?

会社は9期目でマイルストーンの一つとしていたIPOをクリアしました。私はというと、“山を登っている時”が実は一番楽しくて、達成後は疲れがどっと来ました。「疲れたので早く寝たい、とにかく休みたい」というのが正直な感情でした(笑)もちろん今は切り替えが出来ています。

CFOとは“キャッシュフローマネジメントの総責任者”

―上場に携わるにあたって苦労してもなおCFOを続けてきたということは、CFOに“やりがい”を感じられているからこそだと思いますが、佐藤さんにとって“CFOのやりがい”とは何でしょうか?

CFOのやりがいは、数字で最良の経営判断や結果に導いて企業価値向上に貢献できることだと思います。数字を突き詰めて真剣に考えると、良い意味で私しか気付けないこともあります。あとは、日本でもCFOはCEOに次ぐ一般的なCxO職となり数も増えており、またCFOの成果は開示情報に繋がることも多いので、社外から良いも悪いも「大変ですね」、「頑張ってますね」など、素直にフィードバックがもらえることは励みになります。

-そうしたやりがいを感じている佐藤さんが目指す会社・個人としてのビジョンをお聞かせください。

まず会社において、コーポレートミッション「楽しいね!を、世界中の日常へ。」の実現に向けて、基本的にやることは変わりません。これからも、当社のサービスをいかに世界に拡げられるかを変わらずにやっていきます。その中で、CFOとしての私は、IPOしてからまだやり切れていないこと、苦労してきたこと等ありますので、それらを乗り越えていきながら株式市場にワンダープラネットという会社の存在を浸透させられるようにも努めていきます。

一方で、私個人としては、IPOを経てキャリアの一つとなるものを得たのではないかと言われることも増えましたが、まだまだ若造も若造の若輩者だと感じています。生涯経営者だった祖父や諸先輩方にしっかり追いついていけるよう努めていきます。たったの37歳ですから、社会人としての人生を折り返してもいないので、これからだと思っています。

-祖父が歩んだキャリアを考えると、まだまだ精進しなければならないということですね。

まだまだです、恐れ多いです。取締役としてもCFOとしてもこれからだと思っています。

-ありがとうございます。これからCFOを目指す人に対して。どのような方が向いていると思われますか?

キャッシュフローマネジメントを自分事に出来るかだと思っています。財務CFだけではありません、営業CFと投資CFも含めて包括的にです。ゴールはキャッシュフローモデルからの企業価値算定の最大化の結果、ブレイクダウンして営業CF、財務CF、投資CFをどう組み立てていくか、またその為に必要なアクションが実現できるのか、実現確度に不安を感じるなら自ら入ってでもクロージングに貢献できるかなど。

セルサイドアナリストの時に「サービスを触るのは当たり前で、ユーザー目線まで徹底的に調べろ」という教えがありました。今でも愚直に守っており、「クラッシュフィーバー」、「ジャンプチ ヒーローズ」など自社プロダクトを社員の誰よりもやり込もうとしてきました。営業CFへの理解が深まり、経営会議や事業責任者との議論の解像度が上がります。また、対金融機関や投資家では自らが営業責任者として会社や自社サービスの魅力を伝えなければならないので、事業責任者と同等以上に話せるようになろうとするマインドが大事だと思います。

あとは、「取引先との条件協議にCFOが出てくるとは」と私はよく言われてきましたが、私にとっては最良を追い求めるなら当然だと思っていました。結果が全てですから。

-CFOのような管理部門を目指すヒュープロマガジンの読者に向けて、メッセージをお願いします。

私は「CFOや上場準備責任者に挑戦できるチャンスがあるだけで幸せなこと」と周りの方から励まして頂いていましたが、本当にそうだと思います。機会として一生ものです。可能性を感じたり、挑戦しないと後悔すると思った方は真剣に検討してみてください。

挑戦は称賛されるべきものだと思っています。本気度が伝われば自然と周りの方々からサポート頂けますし、人生の糧となる様々な経験が後のキャリアにも繋がっていくと思います。私は人の縁やつながりに恵まれ、色々な方々のサポートがあって今があると思っています。その恩を少しずつでもこれから返していくために、これから挑戦される方の後押しもできれば、またそういう人が生まれてくれたらと思っています。

-最後に、佐藤さんにとって「CFO」とは何でしょうか?

私にとってCFOとは「キャッシュフローマネジメントの総責任者」だと思っています。お金さえあれば会社は何度でもチャレンジできますから。今後も変わらず、中長期的な企業価値向上にキャッシュフローからしっかり向き合っていきます。

―本日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

本日お話を伺った佐藤氏がCFOを務めるワンダープラネット株式会社のホームページはこちら

この記事を書いたライター

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