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自己の知識を会社に、そしてこれからを率いる若い層に還元していきたい-株式会社FiNC Technologies河合貴浩氏のキャリア遍歴

HUPRO 編集部
自己の知識を会社に、そしてこれからを率いる若い層に還元していきたい-株式会社FiNC Technologies河合貴浩氏のキャリア遍歴

数字が好きで会計分野を学んだものの、IT業界の成長をいち早く予見して開発エンジニアにキャリアチェンジした河合貴浩氏。遅咲きのハンデを視野の広さと勤勉さで挽回し、転職先のIT企業では29歳で最年少管理職、37歳で執行役員と着実なキャリアを築かれました。

働き方を変えたいと転職を考えた40代で考慮したのは自分の知識・経験を還元すること。「自分が成果を出せるのは他人のために頑張ったとき」とおっしゃる河合氏はどんな信念でキャリアを築き、そして現在、急成長する若い会社で何を思っているのか。HUPRO編集部がお話を伺いました!

【ご経歴】

2000年 大学卒業後、研究職となる
2001年 研究職の傍ら大学院に通う
2003年 IT企業に入社しエンジニアとなる(技術職種)
2004年 グループリーダーとなる
2006年 部長職に就任
2007年 管理部門に異動(管理職種)
2010年 事業部門に異動(技術職種)
2012年 再び管理部門に異動(管理職種)、本部長職に就任
2015年 執行役員に就任
2018年 管理部門および事業部門の責任者を兼任
2020年 株式会社FiNC Technologiesに入社し経営管理本部本部長に就任
2021年 執行役員に就任し、現在に至る

【キャリアグラフ】

IT時代の到来を予見して、会計分野からエンジニアに転身

ーキャリアのスタート時について教えていただけますか。

昔から漠然と「社会貢献をしたい、人の助けになりたい」との想いを持っており、もともとは数学か理科の教師になりたいと思っていました。大学もその方向性で選ぼうとしていたのですが、商売人である父の影響を受けて経営学部に進学。数字が好きだったこともあり、自然と会計分野に興味を持ちました。

大学在学時の成績が良かったため引き合いがあり、卒業後は研究職に就きました。会計や経営学の知識を役立てて、いずれは困っている中小企業を助ける仕事がしたい、そのためには会計士や税理士の資格があったほうがいいなと考え勉強を始めて、会計学について学びました。

当時(2000年)はちょうど会計ビックバンが起きた時。アメリカの大企業の不正会計が発覚したことに端を発して、会計のルールが大幅に変わった時期でした。会計は企業がどういう状態かを表すもので、企業を犬にたとえると会計は犬のしっぽ。犬がしっぽを振っていたら機嫌がいい、すなわち企業の状態がいいはずが、当時は犬のしっぽが本体を振り回すような状況が多くの企業で起こっていました。会計が企業の在り方や方向性を変えてしまうのだということを、会計ビックバンが起こす大波を見ているなかで感じました。

ー開発エンジニアに転身されたのは、どのようなきっかけからでしょうか。
研究職やコンサルティングは、他人の畑にどういった肥料を撒けばよいか等のアドバイスはしますが、畑そのものを耕すことはしません。そこに考えが至った時、もう少し身近な助けができることをやりたい、現場に出たいと思いました。

当時は現在世界を席巻しているアメリカ系IT企業が世の中に出始めた頃。ITが武器になる時代だったのですが、漠然と、この先にITを使うのが当たり前の時代が来ると予測しました。会計は後からでもできるが、ITは若い時に触れないと身につかない。今しかないと思い、25歳の時に開発エンジニアとして、IT系の人材と受注開発を請け負う会社に入りました。

商売感覚のあるエンジニアとして重宝され、20代で管理部門へ

ー転職されたIT企業ではどのような仕事をされたのでしょうか。
お客様のシステム構築の受注と社内システム構築の両方を担う部門にいました。転職で入社したので、エンジニアとしては新卒に比べて遅咲きというハンデがありましたが、プログラミングができてもビジネスの話はできないエンジニアが少なくない中で、私は数字と商売の話ができるエンジニアということで重宝されました。

企業が成長するには毎日が改善、その連続です。ただ、常に仕組みが変わっていく中で、本業以外の仕事をするのは案外面倒くさいもの。「やった方がいいよね」という評論家はいましたが、実際に動く人はそれほどいない。この状況を好機と捉え、誰もやらないことに手を挙げることで、どんどん実力がついてきました。

当時は労働基準法もあまり順守されていない時代、若さを担保に死ぬ気で働きました。商売人の息子だからでしょうか、労働の対価を時給換算する感覚がなく、その頃から成果を出してそれに対して報酬を得るのが当たり前だという気持ちがありました。

エンジニアでありながら商売感覚がある、成果を出すことにコミットし、残業もいとわず働く。それにプラスして人懐っこい性格だったため、上の人に可愛がられ、29歳で管理部門の経営企画室に抜擢されました。

ー20代で経営企画室入りはすごいですね。ご苦労はあったのでしょうか。
初めての管理部門でかつ管理職の中で一番年下だったので、最初は大変でした。業務改善でステップアップしてきたので、経営企画室でも社内のルール作りや業務改善を担当することになったのですが、周りに頼まれて最初に企画した部門長会議には人が集まりませんでした。これは大変だぞ、と思いました(笑)。

ただ幸いにも、私には「分からないことを教えてください」と言える能力がありました。素直に教えを乞うて誰よりも働く、頼まれたことはどんどん改善していくという姿勢を貫いていくうちに、会議にも人が集まってくれるようになり、少しずつコントロールができるようになりました。

とはいえ、当時私が考えた改善施策は、やる気のある人や仕事ができる人だけを巻き込んだものでした。自分で手を動かした方が早いし結果も出せるため、一人で頑張ることも多かったです。いま思うと悪い癖ですね。手を抜かず全てをやりきるためには毎日終電は当たり前。やればやるだけ実力はつきましたが、体力的には相当きつく体を壊すこともしばしばありました。

ーそのタイミングで、事業部門に復帰されたとのことですが。

管理部門を改善するためにはシステムの力が必要だったのですが、情報システム部門の改善ができていませんでした。当時の情報システム部は管理部門の中ではなく技術部門の中にあり、ユーザー目線ではなく技術目線でシステムが導入されていたために、現場との乖離があったのです。そこで、管理が分かっていて技術の話もできる私に白羽の矢が立ち、32歳のときに情報システム部に移り並行して事業部の仕事も行うようになりました。

事業部から経営企画室に入り、そしてまた事業部に戻ったキャリアは、物事を俯瞰して見られるという強みになりました。会社が目指している方向性や事業部門に求めている成果を理解しながら動いていたので、管理部門と事業部の橋渡しの役割に適任でした。業務システムの改善活動も、技術しか知らない情シスではなく、管理の術も持っている情シスなので、改善がはまっていき結果も付いてきました。

ーご自身の見方が変わったこと以外に結果を出せた要因はありましたか。

決定的に違ったのは、仕事のやり方を変えたことですね。きっかけは当時の上司に「お前は優秀な人材が数人いる部隊を率いたら一流だが、数億円の案件は動かせない」と言われたことです。「数億円の案件のためには、時には数百人が動くし外注先も使う。そうなると、組織の中にできない人が必ずでてくるが、お前はそれを扱うのが下手だ」というのが理由です。

仕事ができない人、やる気のない人とも一緒にやっていける組織の運営方法を見つけなければ、ここから先は大きな事業を進めていくことはできない、と気付かされました。

そこで取り入れたのは、誰でもできる仕組み作りです。自分がやったら早いけれども続かないことは体験済みだったので、属人的な仕組みではダメだ。それに気がついてやり方を変えたので、業務の標準化・改善が進みました。

縦横無尽に動き回った二度目の管理部門

-34歳で再度管理部門にカムバックされていらっしゃいますね。

会社としてある程度の業務改善に成功し、次のステップとして企業資源計画(ERP)に着手する話が出てきました。ヒト・モノ・カネ・情報の一元管理化ですね。経理は経理、法務は法務、人事は人事で単独で動いていたらできない仕事で、一連の流れを理解している人間でなければダメだと、再び白羽の矢が立ちました。

29歳で経営企画室に入った時にはリーマンショックがあり、34歳で管理部門にカムバックしたのは東日本大震災の直後でした。自分が管理部門に呼ばれるのは会社が撤退戦をするタイミングばかり。状況が悪い時には様々な合わせ技を駆使しないと改善はできません。この時は業務改善に会計の知識を用いて「あなたのやっている仕事はいくらで、給料はこうなる」とすべての部署の仕事を数値換算して説得。その結果コスト削減に成功し、黒字化もできました。

-管理部門でも、誰もができる仕組みづくりをされたのでしょうか。

管理部門は会社規模が大きくなってもあまりサイズが変わりません。管理職は部下の給料を上げるのが究極的な仕事だと思っているのですが、管理部門でピラミッドの上を目指すのには限界があります。そのため、どこにいっても通用する人材になるよう部下を育成・指導していました。

できない人をできるようにするには、ルールと仕組みを作って、型にはめてその通りにやってもらうのが一番簡単です。全体俯瞰を取り入れた自分の改善案はほとんど通ったので、今考えると下のアイデアを十分に取り入れられていない、パワープレーだったかもしれません。誰でもでき、さらに仕事も楽しめる仕組みづくりというのは難しいですね。

その後37歳で執行役員になりました。事業部をみたり、他業種の子会社の改善を担当したり、銀行と交渉したり、仕事の幅がどんどん広がりました。数字を管理する側から数字を作る側に回ったのですが、これまで培ってきた管理の観点と現場の観点を両方活かし、縦横無尽に動き回りました。管理部門と事業部とでスクラムを組んで協力することで結果もついてきた時期です。いままでの苦労も挫折も包括されて、楽しかったし勉強にもなりました。

元部下に「上司になってほしい」と乞われてFiNCへ

-執行役員にまでなった会社から、FiNCに転職した理由をお聞かせいただけますか。

40歳になったら自分のペースで働くことを思い描いていたのですが、実際は使命感から猛烈に働いていました。30代後半の子育ては妻に任せきり、実家で一人暮らしをする母の元に帰省もできない。もっと家族と過ごしたりのんびりしたいと思い、会社を辞めることを決意しました。

転職活動をしていた時に、昔の部下が「上司になってほしい」と声をかけてきました。「俺のところに来ないか」と元上司から声をかけられる話はよくありますが、元部下から「上司に」と乞われることはなかなかない。そこに好奇心をくすぐられて話を聞いたら、「泥臭い改善すべき仕事がたくさんある。河合さんの大好物の仕事ですよ」と(笑)。それがFiNCでした。

キャリアを積みたい、こういうスキルを身につけたいと転職する人がいますよね。40代もまだ成長段階ですが、20代・30代でキャリアアップを一通りやってきたので、自分の40代は還元の時期にしたいと思っています。成長しつつも自分がその組織で役に立てるかどうか、自分のいままでの知識をその会社で活かせるかどうか、その観点で転職先を選びました。自分の選択基準にあてはまり、かつ元部下に「上司になってほしい」と求められている、それがFiNCに決めた理由です。

-FiNCに入社された時の印象を教えていただけますか。

私の経験則による考えなのですが、会社は売上が伸びたら大人度というか成熟度も上がっていくのが普通です。たまに売上が伸びているのに成熟していない会社がありますが、ベンチャーで急成長するIT企業はこのパターンが多いです。売上と成熟度が乖離していると、いびつなことが起こりやすい。その典型的な会社が、私が入社した時のFiNCでした。

当時のFiNCは先行投資により赤字でしたが、最初にパッと数字を見た時に、濡れ雑巾を絞るだけで赤字は4分の1までにはすぐに減らせると感覚的に思いました。いまはコスト削減をさらに行い、かつ事業部の利益率も上がり黒字に転換しています。ここからはコストコントロールを維持しつつ、トップラインを伸ばすフェーズと考えています。

入社前はボロボロな状況だと聞いていたのですが、初日に資料を見た時にレベルが高いなと思いました。2日目に見えてきたのは、全員が厳しい状況下での実務に精通しているわけではないということ。例えるなら、銃の撃ち方は知っているけれど戦場で実際に撃ったことがないのだと感じました。現場を知っている自分の経験が発揮できる得意分野、この管理部門なら私のバリューが出せる、そう思いました。加えFiNCはスタッフの性格が良く、協力しながらやっていけると思いました。

-若い人に囲まれて、どんなお気持ちで仕事をされていますか。

若い人の意見を尊重するようにしています。私は管理部門では年長者で、社長は自分より若い30代前半。若いメンバーの意見よりも私の方が正しいと思うことも正直あります。ただ、今後この会社の年齢構成がどうなるかと考えると、どんどん若い人が増えていく。私が正しかったのは10年前、20年前の世界なので、今は若い人たちの意見が正しいかもしれない。発展するためには、彼らの意見を受け入れる必要があると考えています。

管理には攻めと守りがあります。法的な部分や会社のリスクヘッジなどは守りの部分で、ここでは私の経験が生きるので、自分の意見を尊重してもらいます。そうではない攻めの部分、法令外の新たな取組みなどは、私とは異なる意見でもまずは一度やらせてみています。我慢してどこまで任せるのかが自分が置かれている年齢・段階での管理の方法だし、かつ若い会社に来た宿命だと思っています。

管理部門はゲートキーパーとコンシェルジュという二つの役割を持っています。絶対守らなければいけないゲートキーパーという側面と、事業部が働きやすい環境を作るコンシェルジュという側面。この二つののバランスが偏っている時に失敗が起こります。ゲートキーパーが警察のようにふるまった時や、コンシェルジュが何でもかんでもやり過ぎた時ですね。

ビジネスで大切なのは利と理のバランスです。成果主義だけでも理想主義だけでもダメ。このバランスには気をつけるようにしていますし、部下にも伝えています。そして会社のベクトルに全ての部署が合わせること。まったく同じ方向に全く同じタイミングで合わせられる人を集めるのは大変ですが、これは組織を強くするために絶対に必要なことです。

入社した時から1年間、まずはベクトルを合わせるために、利と理のバランスの話、ゲートキーパーとコンシェルジェの話などをずっとしてきました。現在はCEOが変わって会社のビジョン・ミッション・バリューが一新されたので、それを普段から意識しながら行動できるように、部門会議などで日頃心掛けていることをメンバー間が共有できる場を設けています。

-HUPROの読者に向けて、メッセージをいただけますか。
キャリアを歩む中で、自分の力を誇示したい、スキルをつけたいという気持ちは誰しもが持つものだと思います。ただ、実際には他人のために頑張っている時のほうが、成果が出やすく力もつきやすいものです。特に若いうちは損得勘定で仕事を選ぶのではなく、会社全体や一緒に働く仲間にとってプラスになることはなんでも手を挙げてやることをお勧めします。年齢が上がるとやりたくてもできませんから。

いまは世の中そういう時代じゃない、という意見があることは分かっています。ただ、会社のために働くのではなく自分のために働きたい、会社と対等でいたい、というのであれば、成果を出す必要があります。義務があってこその権利です。自由はルールがある中でやるからこそ得られるものであって、ルールがない中での自由は無秩序。これをはき違えないことが大切です。

弊社で管理部門を採用する際には、「経験を積みたい」だけではなく、どう会社に貢献してくれるのか。また、知識は後からいくらでも付いてくるので、ベクトルを合わせられるマインドを持っているかどうかを重視しています。

これまで数多く業務改善をしてきましたが、一番の効率化はみんなが仲良くなること。特別なことをする必要はなく、一緒の船に乗りお互いに助け合っているのだから、笑顔で挨拶し、挨拶されたらニコッと笑う。そして困っていたら助け合う。知識やスキル第一の能力主義もいいですが、この社会人スキルはどこにいっても基本だと思いますので、大切にしてほしいです。

今回お話を伺った河合氏が執行役員 経営管理本部 本部長 兼 経営企画部 部長を務める株式会社FiNC Technologiesのホームページはこちら

この記事を書いたライター

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